元国会議員秘書から見た日本政治の基本は、フォルテ・フォルテでフォルティッシモだ

 政治とは、ある意味、無から有を生む出すことが出来る究極の仕事なのかもしれない。それを肌身で感覚的に感じている、少しでもこの国を良くしたい、志のある少なからずの人々が政治家を目指しているのかもしれない。

 政治の大きな役割は、予算案を作成し、予算関連法案と言われる法律を作り、それを行政機関を通じて執行することによって、国・自治体を動かすことである。法律を制定すれば、何でもできるわけではなく、その範囲は憲法に制約されるし、憲法学上の人権論の通説の行きついた先では、憲法の上位概念とも言われる、「自然法

kotobank.jと言われるものにも、制約を受けるとされている。

 法律で定めれば何でも許されるとされる、法律万能主義とも言われる概念は、「法治主義」と言われるが、第二次世界大戦後、その「法治主義」という概念は否定されるに至る。

 その理由は、民主的なプロセスを経て選ばれたヒトラーの存在によるものが大きいとされている。ヒトラーにより、法律万能主義は崩壊し、「自然法」に由来する、それに代わる「法の支配」とう概念が新たに現れるに至った。

 「法の支配」は、キリスト教的な思想に由来するものであるが、それは、法律の上位概念として存在し、人が人とし生まれながらにして有している、人の世界を規律するものとして存在するものであり、人が制定する法律は、「法の支配」を超えることのできないものとされ、現代の法秩序を実質的になしているものである。

 少し説明が遅れたが、フォルテとは、イタリアの音楽用語で「強く」を意味し、フォルティッシモは似た意味で「より強く」を意味する。

 国政では、その議員の選出に間接民主主義を採用している為、フォルテ・フォルティッシモの姿勢で臨まなければ、自分の是とする主張を突き通すことが難しいとされる。 

 何故なら、与党として日本を引っ張ってきた自民党の中では、衆議院議員の場合、当選回数により、発言力の強さに強弱が出てくる為、「自分はこう思う」、「こうしたい」という程度の想いでは、国政を動かすことは、ほぼ出来ないと思った方がよい。

 「こうしなければならない」、「この政策しかない」と自分の信じる道を超強力に推し進めようとする活動がとても必要となる。この考えを持つ国会議員が良くも悪くも多いため、中々意見の集約が進まないのだが、それをまとめ上げることが出来る人間が、例外もかなりあるが、派閥の領袖になったり、将来の総理候補などとも言われたりするのである。

 野党議員の場合、国会議員という身分にのみ執着するというプライオリティが非常に高く、様々な政党を渡り歩く議員が非常に多い。その証拠に、一時期政権を奪取することに成功した、日本新党民主党にしかり、反自民を旗印にする新党が離合集散して、国会議員というポジションに固執し、いくつもの政党を渡り歩ている「政界渡り鳥」と嘲笑される議員が沢山いる。

 都知事小池百合子にしても、日本新党を皮切りに、新進党新生党自由党、保守党、自民党みどりの党都民ファーストの会希望の党、三か月で辞任した防衛大臣のポストなど、一体何をしたいのかよくわからない政治家の一人でもあるが、国会議員秘書の間では「政界渡り鳥」と揶揄・嘲笑されていた議員の一人だった。渡り歩いた政党の数だけ、人を裏切ってきている訳ですが、普通の人の感覚では、考えられないものである。

 最近、久々に、個人的に永田町ルートから仕入れた情報では、将来は、内閣総理大臣をも狙っているとうのだから、恐れ入ったものだ。総理のポジションは、昔から「自分で狙わなければ、成れないポジション」と言われているが、狙っていることが周囲にバレた瞬間から、引きずりおろされるとも言われている。

 ほかにも、社会党から、自民党に身を転じ、今は、日本維新の会に所属する谷畑孝など、はっきり言って、一体、何をやりたいのか意味不明の存在だし(ただ国会議員をやりたいだけの、典型的な議員にしてはいけない人)、桜井充二階派に入会した東京都立川市周辺選出の長島昭久は、自民党に入党しようとしているが、無節操もいいところだろう。

 このような議員は、当選するために、有権者に対して、ディフェンス・ディフェンス・Difesaで、攻めの姿勢で政治を行うことは、不可能だろう。そのディフェンスも、自分の身分を守ることで精いっぱいで、弱者が実を守るディフェンスとは、意味が全く違う。

 フォルテ・フォルテでフォルティッシモの姿勢で、政治を行うことが出来ない政治家には、既に存在意義はなく、将来性のある、有能で、志のある若い政治家に後進を譲ってもらいたいものである。

 

f:id:kazukazu1114:20200611025202j:plain

政治家の流れ星

 現在のような、暗闇が深く、先行きの見えない時代にこそ、将来輝く星(若い力)を探しやすいのでではないだろうか。

 夜空に数多輝く星は、夜空が暗いほど、強力に輝きを見せる存在なのではないだろうか。その暗い夜空には、日常、見ることが出来ない、彗星も見出すことが可能なはずである。