現在の国民が持つ日本教育への意識は、明治時代以下!??

 日本における、近代的な教育システムは、明治5年(1872年)頃に出来上がったとされています。そして、明治40年(1907年)に、義務教育である尋常小学校6年、尋常高等小学校2年制が成立しました。もともと、欧米と同じ9月入学だったのですが、この時から、現在の4月入学、3月卒業のシステムが出来上がりました。

 当時は、義務教育といっても、学費を家庭の所得に応じて、月5銭を最低として、10銭まで徴収し、足りない部分は、各集落からの寄付、そして、足りない部分は、行政からの支出により、学校を運営していたようでした。

 当時の最小行政単位は、今で言う、町内会レベルのものが最小行政単位とされており、その行政区域の合併も頻繁に行われており、それに伴って、小学校の統廃合も頻繁に行われていました。

 小学校の新校舎の建設費も、決して安いものではなく、財政的な課題も大きく、地元の資産家が土地を寄付するなどして、なんとか建設にこぎつけていたようです。

 義務教育なのに、授業料を徴収されるという、今では考えられないシステムなのですが、これが逆に、国民の教育への関心を高め、投票権の無かった女子に対する教育熱も相当高いものでした。女子特有の科目として、裁縫があったのも、伝統的な家内制工業であった裁縫を、手に職をつけさせる目的があったものと思われます。

 また、意外かもしれませんが、尋常小学校では、英語教育が行われており、その訓導(教師)の月給は、150円という、超高給(普通の教師は月給5円から10円程度)とうもので、その超高給を支払ってでも、英語教育を普及させたいという国民の意識が見て取れます。

 学校の数に比べて、教師の数が少ない為、師範学校が建設され、教員の育成も盛んに行われました。また、師範学校を出ていない教養のある人々も、数多く、6階級に分けられ、教員に採用されていました。有名な所では、新選組の3番隊組長だった、斎藤一も警視庁の警部補を経て、短大の教員をやっていますね。

 当時の価値観では、子供は、一家の働き手で、家計を支える重要な労働力であり、学校へ通わせるとうのは、死活問題にもなりかねません。それでも、学校へ通わせていたのは、貧しさから脱却する為に、経済的な、何らかの打開策を見出す為だったのではないでしょうか。

 元文部科学省官僚の寺脇健氏により、ゆとり教育が推し進められるという、史上稀にみる教育の大改悪が行われましたが、具えておくべき置くべき教養が低下してしまい、それが、現在の日本の国力の低下につながってはいないでしょうか。教養とは、単なる雑学の寄せ集めではなく、知の再生産を行うためのベースとなるものです。

 私は、ベンチャー企業の設立に携わった経験があり、新卒も何人も採用したことがありますが、「こんなことも知らないの」ということに、何度も出くわし、驚愕したことがあります。その時、はじめて、ゆとり教育の恐ろしさを実感したものでした。

 今、その世代も親になっている世代ですが、知の再生産が行われるのではなく、知のデフレーションを産んでいるのではないでしょうか。

 受験にでない科目は、一切勉強しない、空いた時間は、ゲームばかりやっている、大学を卒業しても、自分の進むべき道が分からない大人達、こういう状況では、少なくとも、高等学校は、学ぶ意義を見出してもらうためにも、もう一度、有料にしてもいいのではないでしょうか。